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テレフォン説法第41回目(昭和60年5月)
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2010.10.01 テレフォン説法

テレフォン説法第41回目(昭和60年5月)

テレフォン説法第41回(昭和六十年五月)

 

 テレフォン説法第41回をお送りします。

お金を使わなくても出来る七つの施し、「無財の七施」の中の一つに「心慮施(しんりょせ)」があります。心と思いやりの施しです。

 

 電力中央研究所の成田理事長の話です。

成田さんの友人がまだ若かった頃、当時、高額所得者で有名な財界人を訪ねました。用件の後で、大変ぶしつけと思ったが質問したそうです。

「あなたはどのようにして、現在のようなお金持ちになられたのですか」

その人はにこやかな顔で、こう答えました。

 

「お金を貯めようと思って努力したことはありません。ひと様のため、社会のために、私にできることなら、どんな小さな事でもさせて貰おうと思って、お金と一緒にそういう心を撒いてきたつもりです。そして気がついてみたら、現在のようになっていました。」

 

 この中にある「心を撒く」とは何と素晴らしい言葉ではありませんが。社会を構成する一員として、よりよい社会をつくる為に、自分の出来ることを少しの私心もなく実行し励んだというのであれば、世間がそれに共感しないはずはありません。「世の中を動かすのは結局人の心」だと思います(昭和57年2・8日日経より)。

 スリランカは国民の平均所得が年間150ドル(三万五千円(当時レート))ですが、角膜移植用の眼球一万六千眼を盲人福祉のために、世界各地へ無償で提供しています。日本もその一部その恩恵に預かっていますが、心の温かい国民です。

 我々は経済大国といわれるが故に、物や金だけ撒くのではなく、「心を撒く」ことがいかに大切であるか。日本語の「心配する」というのは、文字通り「心を配る」ということです。

 

 作家の高見順さんがガンの手術で入院したとき、病室の窓から外を見ると、烈しい雨が降ってます。その雨の中を一人の新聞少年が新聞を配っています。それを見て彼はこんな詩を書きました。

 

 なにかを おれも配達しているつもりで

 今日まで生きて来たのだが

 人々の心に何かを配達するのが

 おれの仕事なのだが

 この少年のように ひたむきに

 おれは何を配達しているのだろうか

 

高見さんは余命いくばくもない絶望の病床にあって、それでもなお人々の心に何かを与え、配っていこうとする。その作家魂に深い感銘を覚えました。

 そこで思い出すのが浜田広介さんの「石」の詩です。

 

 道ばたの石はいい

 いつも青空の下にかがみ

 夜は星の花を眺め

 雨にぬれても風でかわく

 それが第一だれでも

 こしをかけてゆく

 

道ばたの石でさえ、疲れた人にしばすの憩いを与える役をしています。

私共も周囲の人や地域社会に、少しでもお役に立っていると思うとき、生き甲斐を感じます。人生とは所詮「与えること」でしょうか。物や金は与えれば減ります。与えても与えても減らないもの、それは心です。

 人間の存在が人を幸せにできるほど幸福なことはありません。


<昭和60年五月の出来事>

男女雇用機会均等法が成立