-
2011.01.18
テレフォン説法
テレフォン説法第42回
-
テレフォン説法第42回(昭和60年6月)
テレフォン説法第42回をお送りします。
悪必ずしも悪ならず
善必ずしも善ならず
美悪汚善の世界に
人間の深呼吸がある(涙骨)
かつて三越に君臨した風雲児、岡田茂前社長の明暗を書いた本を読み、中々面白かった。
昭和43年、それまで売り上げが落ち込む一方だった銀座支店をまかされた時、彼は若い層を狙って店内を改装。無数の豆電球を使って「光と色の洪水」を演出。店内にロックバンドを入れ、当時まだ珍しかった屋上ビアガーデンを開設したり、ヌードの写真展まで開きました。
時あたかも高度経済成長期、彼のヤング路線はズバリ当って売り上げは倍増した。更にハンバーガーの立ち食いの店を開いたり、女性店員の服装をミニスカートにしたり、岡田商法は兎にも角にも、しにせ三越に新風を吹き込んだことは事実で、彼の「攻めの商法」は当りに当たりました。
しかしその事がワンマンの独善社長をつくりあげ、遂に破滅を招いたとするならば「善必ずしも善ならず」。中国の故事に「金をつかむ者は人を見ず」と。欲の皮が突っ張ると周囲のことは目に入らなくなると言うことでしょうか。
彼の不幸は批判者を遠ざけ、追随者だけで身辺を固めたことにあるといいます。昔から「諫言の功は一番槍にまさる」とか。世間の声に耳を傾けるという意味です。
福原麟太郎には「失敗について」という文章があります。
「人生などというものは失敗の連続だ。己を顧みても、きょうは成功した。うまくいったという日は数えるほどしかない。この表現はまずかった。ここは心配りが足りなかったと数えあげるのが怖いくらいである。しかし失敗して立ち直った時、人はやや賢くなる。失敗をしても立ち直れない人が、本当の失敗者なのかもしれない」とこの人生の達人は言っています。
人間は試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ前進して行くのかも知れません。
笑われて反省するのだ
叱られて賢くなるのだ
叩かれて強くなるのだ。
痛みや躓きの向こうに初めて見えてくる景色もある。して見れば、悪必ずしも悪ならず―
人生は決して「直線」で割り切れるものではないようです。
親鸞聖人は申しました。
「善悪ふたる 総じてもって存知せざるなり」(歎異抄(たんにしょう))。世間では善とか悪とか言うけれども、自分には何が善やら、何が悪やらわからない。それは仏様のように先の先までお見通しならば、善悪を知ったともいえようが、五欲の凡夫が、価値基準の刻々に変わるこの無常の世の中にあって、何がわかるものかと、はっきり言い切っております。
人生とは所詮、失敗と矛盾の中を生き抜くことかもしれません。
悪必ずしも悪ならず
善必ずしも善ならず
美悪汚善の世界に
人間の深呼吸がある