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“Report” from Asahi第四回目
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2007.06.30 "Report"from Asahi

"Report" from Asahi第四回目

“report” from Asahi
N0:3 「動物園」
 
 最近、北朝鮮を巡る報道への厳しい批判をよく耳にする。朝日新聞社に対しても、キムヘギョンさん(拉致された横田めぐみさんのお嬢さん)インタビューについて、「どうして、あんな少女に過酷な取材をしたのか」というお叱りをたくさん頂いた。
 確かに質問によっては、きつすぎるものも含まれていた。配慮が足りない点もあったと思う。
 と、同時に、一つの想い出が私の脳裏に甦った。
 5年ほど前、私は「霞クラブ」と呼ばれる外務省記者クラブにいた。ある晩、朝日新聞社と業務提携している韓国・東亜日報社の東京支局員たちと食事をすることになった。支局長だった朴(パク)さんがソウルに帰ることになり、その歓送会だった。パクさんは当時六十ちょっと前。名前の通り、朴とつな感じのする白髪頭で、演歌のうまいおじさんだった。
 いつもは支局の記者2人と話すことが多く、パクさんとじっくり話すのは初めてだった。東京・赤坂の海鮮居酒屋で日本酒を飲みながら、パクさんの思い出話を聞いていた。
 だいぶ、パクさんの顔が赤くなったころ、ふいに「牧野さん、光州事件って知ってる」と聞かれた。80年代、全斗煥大統領率いる韓国軍事政権が、「自由化」「民主化」を叫ぶ全羅南道第一の都市・光州の市民を銃で圧殺した事件。多数の市民が自国の軍隊の銃剣で殺戮されるという忌まわしい出来事だった。「当時高校生だったが、韓国への印象が薄暗いものになった」。そんな風な答え方をした。
 パクさんは、月並みな答えを気にするでもなく、淡々と語り始めた。当時、パクさんは脂の乗った社会部記者だったそうだ。「光州(クァンジュ)が変だ。すぐに飛べ」という上司の指示を受けて、ソウルから約四時間ほどかけて、光州にたどり着いた。「そこで見た光景は一緒忘れない」とパクさんは言う。
 頭から血を流して路上に倒れる学生、泣き叫ぶ老女。道路に面したビルの窓ガラスは割れ、路上には火炎瓶や石が散乱していた。あちこちに装甲車が止まり、銃を持った軍隊が警戒にあたっていた。
 夢中で写真を撮り、半狂乱の市民たちにくっついて右往左往し、やっとの思いで話を聞き、原稿を書いた。だが、最後に待っていたのは、軍事政権の検閲と記事差し止めだった。
 「わたしはその夜、泣きながら全然事件と関係ない原稿を書いたんですよ。もう、どんな原稿だったかよく覚えていないが、動物園で鹿の子どもが生まれたという、他愛もない原稿でしたよ」。パクさんの口調はあくまで淡々としていて、まるで他人の経験を語っているかのようだった。
 「牧野さん、韓国の人たちは当時の事件をロイターやAPといった外国通信で知ったんです。こんな事があって良いんでしょうかねえ」。韓国政府はそんなパクさんを危険視して疎んじるようになった。東亜日報にいられなくなり、一時期「留学」という名目で日本に滞在した後、ようやく復職したそうだ。
 ソウルにいたころ、光州事件の犠牲者を祀った(事件発生日を表す)5・18記念墓地に行ってみた。白い大きな塔が立ち、犠牲者一人一人の墓碑が並んでいた。当時の事件フィルムやパネル写真も見ることができた。「これが、日本人観光客であふれ、自由を謳歌している韓国のたった20年前の姿か」と、暗然とした思いにかられた。
 ソウルの友人に、光州での出来事をすると「当時、毎晩九時のニュースになるとテモリ(はげ頭)の偉そうな奴が出てきてねえ。誰だろうってみんなで話していたら、あとで全斗煥ってわかったのさ。それくらい状況が飲み込めていなかった」と話してくれた。
 自由でものが言える国であればこそ、自制しなければいけないこともある。拉致被害者を大勢で取り囲み、家に深夜まで居座るなど論外だろう。一方で朝日新聞に入社以来、先輩記者からは「常に真実に近づけ」と口うるさく言われて来た。
 横田めぐみさんの遺したお嬢さんがどんな方で、拉致被害者とその家族が北朝鮮でどんな暮らしをしていたのか。北朝鮮が拉致被害者の家族をどう扱っているのか。それらを知ることは、北朝鮮への政策や世論作りに必要なことだと思う。
 パクさんは光州事件のとき、記者にとって一番つらいことを経験したけれど、その後、編集局長にまでなった。
 回り道をしたパクさんに再び光が当ったのは、自由を渇望して止まない韓国人の健全な世論があったからだと思う。