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テレフォン説法第十四回
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2008.04.08 テレフォン説法

テレフォン説法第十四回

テレフォン説法第十四回(昭和五十八年二月号)

 

真楽寺のテレフォン説法第十四回をお送りします。

 

 「自らを灯(ともしび)とし、法を灯とせよ」

 

 釈迦が八十年の生涯を閉じたのは、インドのクンナガラという所でした。二本のサラの木の下に横たわり、愈愈命且夕(めいたんせき)に迫って参りました。多くの弟子達はその周囲をとりまいて、嘆き悲しみました。

 その中でもアナンという弟子が、釈尊危篤ということで大声をあげて泣き悲しみました。その泣き声が釈尊の耳に入りまして、「誰が泣いているのか」と呼び寄せました。

 「アナンよ、お前は何故泣くのか」

 「釈尊よ、私達の眼目、私たちの柱と頼んだあなたが亡くなられた後、われわれは一体どうすればいいのですか」

 釈迦は静かに答えました。

 「歎いてはいけない。初めあれば必ず終わりのあることを、私はお前に何度くり返しただろう。お前はまことにおまえ自身の寄辺ではないか。お前はお前の灯火の役目をつとめているではないか。お前自身の外にどこに寄辺をさがすのか。自らを灯とし、法(おしえ)を灯としていきなさい」こう釈迦は答えています。

 法句経には次のように記されています。

  おのれこそ おのれのよるべ

  おのれを措きて 誰によるべぞ

  よくととのえし おのれにこそ

  まこと得がたき よるべをぞ獲ん

 

 私は寺を継いで三十余年、職掌柄さまざまないたましい場面に出会ってまいりました。幼くして親にわかれた子供のかなしみは、身につまされて思います。然し若い者にはまだ将来への希望が残されています。柱とたのんだ夫に死なれた若い未亡人を慰める言葉を知りません。又いたましいのは頼りにし切っていた我が子に先立たれた親の気持ちを想うとき、何といって慰めていいか言葉に窮します。世間では「さかさ」を見るほどつらい事はないと申します。

 人間はみんな意識するしないに拘らず「寄る辺」を求めているのです。いや、万一のときは財産があるから心配いらない―と言う人がいます。しかし財産というものは見かけによらず短命なものです。三代四代と全盛が続く家などは、先ずありません。財産ほど移り気で短命なものはありません。

 親も子も財産も所詮あてにならないとすれば、最後に残るものは自分しかありません。法句経は「よくととのえし己にこそ、まこと得がたき寄辺をぞえん」と申しています。

 「よく整えしおのれ」でなくては、最後の「とりで」にはならないと言うことです。しかし、己をととのえる―ということは口で言うほど生やさしい仕事ではありません、人を叱ることは随分むずかしいことですが、自分の子を叱るのはモット難しい。妻を叱ることは更に難しい。しかしまだまだ不可能ではない。自分を叱ることはおそらくは不可能かも知れません。

 他人の立場、他人の痛みの解る人。自己の信ずる処を行って、然もおのずから自然の法を超えずというような人間、自分を利する行為が、そのまま他人を利するという―そういった自分にまで高めていくには、大きな努力を必要とします。自己の信ずる処に「露堂々」として進み得る人間を創ることが、今ほど大切な時はありません。

 その意味では、現代のマスプロ教育は個人を造ることを忘れています。真の一人をつくる教育が忘れられていました。

 宗教を無視した教育は、ただ利口な悪魔を作るだけであります。

 今こそ釈迦最後の言葉「二灯のおしえ」をもう一度噛み締める必要がありそうです。

 

 自らを灯とし  法を灯とせよ