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2008.01.20
テレフォン説法
テレフォン説法第十回
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テレフォン説法第十号(昭和57年十月号)テレフォン説法第十回をお送りします。今日は法句経(ほっくきょう)の一節です。われに子らあり 財ありと愚かなる者は こころ悩むされど われは既に我のものに非ず何ぞ子らあらん 財あらんわれに子らあり、私には子供達がある。「もう大丈夫だ」という気持です。子供は小さい赤ん坊の時は、父親にとっては閉口ですが、だんだん大きくなるにつれて、何となく頼りになってきます。「この子供が立派に成長すれば、どんな事があっても、もう大丈夫」そんな気持になってきます。ところがやがて結婚でもすると、嫁が息子を占領する。会社で勤めれば、わが子は会社の社員です。会社が忙しくなると幾日も顔を見ないことすらあります。段々と子供は親から離れていく。親方はいつまでも子離れをしない。そこに何やら親の心に満たされないものが残ります。まして別居でもすれば、親子とはもう名ばかりのものになります。第二句の「われに財あり」おれには一生安楽に過ごせるだけの財産がある。子供が離れていこうと、世間が俺を無視しようと、所詮は金の世の中、これだけの財産があれば大丈夫だ。風吹かば吹け、雨ふらば降れ。ところが財産は見かけによらず短命なものです。一軒の家で全盛期が二代三代と続くような家は稀であります。昔の悠長な時代でさえ、三代目には何とやらと申しました。ましてや昨今のようにテンポの早い時代には一生のうちに財産の変動は幾度もあります。財産は案外もろいものです。次に「されど、われは既にわれのものに非ず」と釈迦は言っています。すでに財産も子供もあてにならない。とすれば一体何が頼りになるのか。「この自分の体だ」この頑健な体さえあれば、どんな荒仕事でもできる。矢でも鉄砲でももってこい!と若いときは思います。ところが歯が一本痛んでも仕事は手に付きません。四十を過ぎれば否応なく老眼が始まります。白髪が増えてもどうにもなりません。六十を過ぎれば物忘れが始まります。自分の体でさえも自分の思うようにはなりません。「何ぞ子らあらん、財あらん」であります。では仏教では自分の子をどう考えるのでしょうか。われの子に非ずして、われらの子であります。子を私有してはいけない。といって共有でもない。子を公に持つこと。即ち、公有せよと教えます。子を頼りにしたいのは人情です。しかし同時に世間のために役立つ存在でもあります。私すべきものではないようです。財産についても、それをしまって置く「最上の堅固な蔵は、天下と共に一切の財物を公用すること」だと釈迦は申しました。この短い法句経の一句の中に、正しい子供と財産の持ち方、生かし方が示されているようです。