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テレフォン説法第二十七回
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2009.03.24 テレフォン説法

テレフォン説法第二十七回

  テレフォン説法第二十七号(昭和五十九年三月)

 

 テレフォン説法第二十七回をお送りします。今日は法句経の一部

 

 「匙(さじ)は器につけども、その味を知らず」

スプーンはコーヒーの中にドップリつかっていても、コーヒーの味を知らない。

なんと見事な「たとえ」ではありませんか。釈迦の説くところは極めて平易で、わかり易い教であったに違いありません。

 現在でも余り教育の普及していないインドです。それが二千五百年も前、むつかしい仏教哲学を説いたところで、誰が理解したでしょう。

 いま私共は漢文に訳された経典を棒読みにしています。いくら聞いても珍文漢文(ちんぷんかんぷん)でチットもわからないことを「まるでお経のようだ」といいますが、これでは困ります。

 一方最近は漢文に対する読解力が著しく低下してきました。当用漢字、漢字制限などがそれに拍車をかけています。

 漢字は別としても、自分の意志でなく、親の希望で上級学校へ進学した生徒が、果してどれだけ真剣に勉学に打ち込むでしょうか。

 大学卒がただコーヒーの中に何年も漬かって出てきたスプーンに過ぎないとしたら喜劇です。大学レジャーランド説も、こんな所から出てくるのかも知れません。

 豊かな日本では、子供達は大変物持ちです。学習机、自転車、百科事典、テープレコーダー、ステレオ、腕時計。ピアノは六人に一人、専用テレビは九人に一人が持っています。

 子供の教育に対する母親の熱心さは世界でトップ。その中で母親の不安は、子供に根気が足りないこと。物事を進んでやらないことだといいます。それに引きかえ、乏しく、家庭環境にめぐまれなかった子供が、かえって生きる力と知恵を身につけていきます。その反省が、おしんブームを引き起こしたのでしょうか。

 弘法大師は申しました。「心暗き時は即ち遇う(あう)ところ悉く(ことごとく)禍いなり(わざわい)。眼明らかなる時は途にふれて皆宝なり」と。

過剰に与えることによって、わが子の眼をくもらせ、自分で獲得する力を奪っている親が世の中には何と多いことでしょう。

 本人に意欲がなければ、すべては猫に小判、「宝の山に入って、手を空しうして帰る」ような生活をしているお互いかもしれません。

 

 自ら水の中にいて、渇を叫ぶが如くなり

 長者の家の子となりて、貧里に迷うにことならず

                        (白隠 座禅和賛)

 

 日蓮上人の有名な「土籠御書」の一説に

「法華経を余人の読み候は、口にばかり言ばかり読めども心は読まず。心は読めども身に読まず」

幾たび経文を読んでも、その教を身に実行しなければ、何の価値もないというわけです。

 子供のとき、祖母はいつも私に言いきかせました。「お説教は耳で聴くものではない。皮膚の毛穴を通して聴け」と。日蓮上人の説く「身読」のむつかしさを痛感します。

 昔は「不言実行」を尊び、自己の行為を口にすることはつとめて避け、仕事自体の自然の語りかけに任せました。現代は仔細なことでも吹聴して、甚しきは誇大に宣伝して恥じる処がありません。

 PRの時代なればこそ、「人、見るもよし見ざるもよし、われは咲くなり」の心境を大切にしたいものです。