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テレフォン説法第二十八回
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2009.05.22 テレフォン説法

テレフォン説法第二十八回

 テレフォン説法第二十八号 (昭和五十九年4月)

 

 テレフォン説法第二十八回をお送りします。今回は阿含経の一部

 

 ひとの牛をかぞえるは 

 道を求める者の要にあらず

 

これは釈迦の二人の孫弟子が、当時のバラモン教の経文を暗誦(あんしょう)して、その上手下手を競っているのを諭した言葉です。

 「お前達はそんな馬鹿馬鹿しいことをして何になるのか。それではまるで他人の牛を勘定しているようなもので、道を求める者のやるべきことではない」と注意されました。

 牧場の牛飼いが他人の牛の数をいくら数えても、自分の牛が増えるわけではありません。私どもの生活を考えると、この牛飼いを笑えない時があります。

 「サラリーのために、一日八時間さえ働けばいい」と考える人があったら、それは月給のために身を売っている人です。

「仕事が義務なら人生は地獄だ。仕事が楽しみなら人生は天国だ」といったのはゴーリキーでありました。

 仕事に対して何の情熱も持たず、工夫も研究もせず、夕方の退社の時刻さえくればいいとなったら、そこには生き甲斐もなく、人間としての成長もありません。そんな生活からは道を求めるという態度も出てきません。ならば「道を求める」とは何でありましょう。それは仕事と一体になっている自分を発見することです。経典を読みながら自己を掘り下げてゆくことです。

 親鸞聖人は申しました。「弥陀五劫思惟(みだごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」

阿弥陀仏の本願は生きとし生ける、いかなる者も救おうと呼び給うて居ます。それをよく考えてみると、ひとえに親鸞ただ一人を救うためであった、と告白しています。

 たとえば五人の子供のある母親は、五人皆おなじように育てたのですが、五人の子を同時に育てたのではありません。最近五つ子を産んだ人もいますが、これは例外で、普通は一人一人別々に産み、別々に育てたわけです。

 そこでは五人の子供は親の愛を五分の一ずつ分け合ったのではなく、一人一人が親の全力で育てられ、全力で愛されてきたわけです。従って、一人一人がわれわれ一人のための母親であります。

 同じように仏様の慈悲は、親鸞一人が正客であって、他のあらゆる人はお相伴でありました。親鸞にとって経文の言々句句は、彼の胸をはげしくゆさぶり、人間としての成長と共に、救済へと導かれてゆきました。

 商店も会社も役所も、すべて人が働く場所は、そこがみんな自分の救われる場所であり自己成長の学校でなければなりません。即ち「資生産業これ仏道」であります。化粧品の資生堂という社名もここから出ています。

 お店へきてくれたお客を納得させ、満足させることが、同時に自分の修行であって欲しいものです。自分と他人がピッタリ呼吸のあった境地、これを「自他一如」といいます。

 自分も他人も、個人も会社も、仕事の中で自然と成長し高められて行く世界。これが「自分の牛を数える」姿でありましょう。