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テレフォン説法第二十九回
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2009.06.26 テレフォン説法

テレフォン説法第二十九回

 テレフォン説法第二十九回

 

 テレフォン説法第二十九回をお送りします。

 

 「平常心これ道」  無門関の言葉です。

 横浜に三渓園という名園があります。造園の名人、原三渓がつくったものです。

有隣堂発行の月刊誌で「原三渓を語る」という座談会の記事を読みました。谷川徹三さんがそこで次のような追想談を述べています。

 三渓先生のお茶の会で、生涯忘れることのできない二つの席がある。

 その一つは昭和の初めの頃、喫み(のみ)回しのとき哲学者の和辻哲郎さんが喫み口を拭こうとして、手もとが狂って茶碗の一部をポロっと欠いてしまいました。その茶碗は「白雨」という名器です。みなギクっとしました。そのとき三渓先生は少しもあわてず「少し茶碗を傾けて下されば、あとずっと一巡りいたしますから」。この一言で茶会は無事に済みました。まさに平常心であります。

 それから半年か一年後に、おなじ顔ぶれ、同じ道具で茶会を催しました。三渓翁は例の茶碗「白雨」を出して、「この通りちゃんと元のようになりました」と言ってサラっとしていたそうです。

 もう一つは、三渓翁が息子さんを亡くして一週間後に、追善の心を込めて開いた茶会です。翁は令息の死を一言も口に出しません。ただ三渓園の蓮の花が見ごろだからといって招かれました。 

 朝早く蓮池の傍らの建物に通されました。出された朝とお斎(おとき)が、溜め塗りのお椀に蓮の葉を敷いて、その上に数枚の蓮の赤い花弁を置き、花弁の中へ飯を盛る。いわゆる「浄土飯」であります。床の間の妙用禅の掛け軸と浄土飯で、翁は自分の心の中を無言の中に語られました。

 三渓翁が名器をいためた客の粗相に顔色一つ変えず、茶事を滞りなく終えた「平常心」には、思わずうなってしまいます。"客の粗相は亭主の粗相、亭主の粗相は客の粗相"と茶人はお互いに戒め合います。

 お茶で有名な千利休の孫に宗旦という人がいます。知り合いの安居院の住僧が庭に咲いた見事な妙蓮寺椿の一枚を、小僧に持たせて宗旦のところへ届けさせました。ところが小僧は途中でつまずいて転んだ拍子に、椿の花が落ちてしまいました。ささ困ったのは小僧です。一度落ちた花は元の枝には戻りません。枝と花とを両手に持った小僧は、思案にくれながら宗旦のもとへ参りました。

 これを聞いた宗旦は小僧の失敗を咎めず、茶席の床を空白にして、柱に利休から譲られた竹筒をかけて、花のない椿の枝を投げ入れその真下に椿の花を置きました。

 そして一服の茶を立てて飲みながら、「小僧どうだ、落花の風情もまた一入ではないか」

 人の過失を許して、花を持たない枝と、枝を持たない花。ともに無価値な存在に「美」を見つめる「人生のお点前」は、まさに見事の一言につきます。

 誰もが捨てて顧みないものから、真、善、美、を見据える目は、人生の見方にも通じるように思われます。